緩和ケアには正解はないから、 永遠に悩み続ける。 悩み抜いた結果が正解だと思うようになった〜緩和ケアチーム・前編〜
かつては緩和ケアはがんの「終末期」と強く結びつけられていた。しかし、日本人の2人に1人はがんに罹り、治癒の可能性が高くなってきた。いかにがんと共生するかが大切である。近年はがんと診断されてから緩和ケアが始まるという考え方が広がっている。ジャーナリストの村上敬が、千船病院の緩和ケアチームに密着した――。
毎週金曜日の午後2時。
千船病院の緩和ケアチーム――医師、認定看護師、理学療法士、作業療法士、ソーシャルワーカー、薬剤師、管理栄養士――の面々が「ラウンド」を開始する時刻だ。
ラウンドは、回診や見回りを指す医療用語である。緩和ケアを必要とする患者が入院する病棟をチームで回り、主治医や病棟の看護師と情報交換をしながら緩和ケアの方針を決めていく。
緩和ケアは、がんなどの病気と診断された以降、身体的症状の緩和や精神的な支援によって患者の生活の質( QOL )を改善する医療ケアを指す。緩和ケアチームと患者と関わりは、緩和ケアを必要とする病棟の医師や看護師から寄せられる介入依頼がスタートになる。緩和ケア認定看護師が患者周辺のスタッフから情報収集を行ったうえで、直接患者のもとに行き、患者の抱えるつらさに耳を傾ける。緩和ケア認定看護師がまとめた情報をもとにラウンドが行われ、適切なケアを探っていく。
この日のラウンドでは、緩和ケアを必要とする患者数人について情報交換した。
たとえば患者の山本さん( 仮名) はがんの手術をした後、食欲が落ちていた。それに対して医師の竹嶋好は、食欲増進効果があるエドルミズの処方を提案した。「ただ、適応条件がいろいろあるんです。山本さんはどうですか」
チームのまとめ役である認定看護師の岩本真由子が、すかさずカルテに目を走らせる。「山本さんは適応外ですね。残念やな」
すると理学療法士の竹井夕華が新しい情報を提供した。「食欲ないんですか? リハビリのとき『(関西の有名とんかつチェーンの)〝KYK〟のとんかつ食べたい』って言ってはりましたよ」
それを聞いて管理栄養士の荒川綾子が顔をほころばせる。「本当ですか。ちょうどよかった。明日の献立、カツサンドです。一個確保するよう手配しときます!」
荒川がその場で手配の電話をしている間も話は続く。「もし確保できなかったらがっかりするやろうから、そのときはテイクアウトしに行こうかな」と岩本。「KYK、おいしいですもんね。私も食べたいわ」と他のメンバーも同調する。
緩和ケアラウンドは、その性質上、もっと重苦しい雰囲気の中で行われるか、あるいは逆にプロフェッショナルとして感情を排して淡々と進められるものだと想像していた。しかし、千船病院の緩和ケアチームは思いのほか和やか。専門家としての知見を交えつつも、まるで友達を見舞うかのように患者のケアについて話し合っている。
温かみのある緩和ケアチームがいかにして形成されていったのだろうか。時計の針を巻き戻してみよう。
親しい後輩の看取りを機に認定看護師になると決意
千船病院の緩和ケアチームの生みの親が、認定看護師の岩本である。
岩本が看護の道を志したのは小学校4年生のときだ。母親から買ってもらったナイチンゲールの伝記がきっかけだった。幼いころから父の転勤で引っ越しが多かったが、小学校5年生からは兵庫県に落ち着く。小中の職業体験では看護師を希望。その後もナイチンゲールへの憧れは色あせることなく、高校卒業後は、千船病院など複数の病院を運営する愛仁会の看護助産専門学校に通った。「実習で、脳梗塞で思うように体を動かせなかった患者さんが、看護師の助言や励ましで動かせるようになった場面をよく見ました。もちろん患者さんの力が一番ですが、その力を信じて引き出す看護師も力もすばらしいなと」
卒業後は千船病院に就職して、外科病棟の配属になる。「当時は22時ごろまで先輩が付き合ってくださり、その日の看護の振り返りをしていました。新人同士でもその日教わった手技をお互いにやって復習したり。大変でしたけど、充実した毎日でした」
看護の仕事を考え直す機会が訪れたのは5年目だった。後輩の看護師が乳がんを患ったのだ。
入院するにあたって、後輩から看護担当をしてほしいと申し出があった。親しい人のケアをするのは初めての経験。とても冷静ではいられなかった。「先生と意見がぶつかることもありました。先生も後輩のことを思って苦しみながら治療されていました。でも、私は後輩の生活の質のこと、遺されるご両親の気持ちなど、どうしても治療以外のことに気持ちが向いてしまう。今なら治療と生活の両方を考えながら冷静に判断できたと思いますが、あのときは偏った判断しかできなくて……」
自分の力不足も痛感した。緩和ケアでは、患者の疼痛や息苦しさ、倦怠感、浮腫などを取り除くケアを行う。その知識や技術が圧倒的に足りなかったのだ。「彼女とは看取りまで一緒でした。自分が担当する以上、絶対苦しい思いをさせないでおこうと誓っていたんです。でも、最期は『痛い、痛い』って。ほんまに申し訳なかった。苦痛を訴える声は今も耳に残っています」
いくら思いが強くても、気持ちだけでは患者の苦しみを和らげることはできない――。
そう実感した岩本は緩和ケア認定看護師の資格取得を上司に直訴した。資格取得には学校に半年~1年間通う必要があり、その間は病棟勤務ができない。同僚に負担をかけることは心苦しかったが、まわりは快く送り出してくれた。
そして、2009年、認定看護師を取得。千船病院に戻ると、さっそく上司に相談して緩和ケアチームを立ち上げた。
チームと言っても、最初は岩本と当時の外科医長の二人だけ。当時は現在ほど積極的に緩和ケアに取り組む急性期病院が多くなかったこともあり、院内でもチームの存在は知られていなかった。医師や看護師に認知されないと依頼も来ない。まずは各診療科へのラウンドから始めて、緩和ケアに関する困りごとを拾っていった。
現場で主に困っていたのは医療用麻薬に関することだった。痛みを和らげる薬はたくさんあるが、患者の考えや病状の進行によって相応しい薬は異なる。それらを総合的に考慮した場合に最適な薬は何なのか。専門外の医師や看護師には見極めが難しく、緩和ケアチームにぽつりぽつりと相談が舞い込み始めた。
緩和ケアチームの存在が知れるにつれて、医療用麻薬以外の相談も増えていく。「患者のつらさをやわらげるマッサージ方法を教えて欲しい」「食が細くなっても食の楽しみを味わってもらうにはどんなメニューがいいのか」「在宅でケアしたい場合、家族はどうすればいいか」
より専門的な知識や技術が必要だと感じた岩本は、リハビリテーションセラピストや管理栄養士、ソーシャルワーカーなどに働きかけてチームの多職種化を進めた。メンバーは替わっているものの、2年目にはほぼ現在と同じ職種構成になった。
チームが院内で頼られる存在になったと実感できるようになるまで、発足から10年前後を要した。医師や看護師から「がんの告知に同席してほしい」「精神的につらそうな患者さんがいるので、一度話を聞いてほしい」という依頼が増え始めたのだ。
がんと診断されると、医師が治療の選択肢を患者に伝える。医師は書面や画像を使いながら丁寧に説明するが、その場では受け止められない患者がほとんどだ。そこで岩本は医師からバトンタッチして、患者に寄り添い、内容をきちんと理解したかどうかを確認する。
医師から連絡があると、岩本は何を置いてもすぐ駆けつけることを自分に課している。「患者さんは一日一日、一分一秒が大事。私とは時間の重みが違う」という思いがあるからだ。「告知のときは、『うんうん』と聞いていた患者さんが面談室で『何がんやったかな?』と尋ねたり、落ち着いて見えた患者さんがいきなり泣き崩れることもあります。そうした状態で治療の意思決定をするのは難しい。まずは感情を吐き出してもらうことが私の役目。その後、気がかりや困りごとを確認して、緩和ケアチームの他職種につないでいます」
チームの立ち上げから13年。院内で認知が高まっただけでなく、チームとしての成長も感じている。「患者さんに合ったケアをするには、どのような人生を送ってきたのかというライフレビューを知ることが大切です。千船病院緩和ケアチームの強みは、みんなの情報を集結して患者さんを知ろうとすることに一生懸命なことだと思います」
では、岩本自身の成長はどうだろうか。後輩を看取り、自分の力不足に悔しい思いをした日々から何か変わったのか。そのように問うと、岩本は少し考えて答えた。
「患者さんの生きる力を信じられるようになりましたね。生きる力って、生命力とはまた違うんです。がんと診断されてつらくない人なんていません。でも、みなさん辛い思いの中から少しずつ前を向いていかれます。『がんになったからあなたに会えた』とおっしゃる患者さんもいれば、『奥さんにありがとうなんて今まで言ったことないけど、言うとくわ。最期くらいいい夫でおらんとな』とおっしゃった患者さんもいた。がんになっても新しく関係性を築いたり、精神的に成長し続けられる。そう教わって私自身も勇気をもらいました」