年齢や病状によって 治療を区切ることはできない。 関節を長い期間で診るために センターを立ち上げた。〜関節センター・前編〜
関節とは骨と骨が可動的に結合している部分を指す。緩衝材のように入っている軟骨が、加齢、あるいは運動などの使いすぎによりすり減り、痛みが出る。これが関節痛である。軟骨は「自己再生能力」がない。つまり、1度すり減ると元に戻ることはない。患者の年齢、状態に合わせた、長期的な視点での治療が必要になってくるのだ。
阪神淡路大震災が起きたのは、鄭克真が高校生のときだった。
鄭は1977年に兵庫県神戸市で生まれている。父親は神戸市須磨区で整形外科医院を営んでいた。須磨区は震災の被害が大きかった地区である。震災の直後、父親と診療所に様子を見に行くと半壊状態になっていた。
「父親が開業したのはぼくが小学校2年生のときでした。とにかく仕事にひたむきで、夏のお盆とか正月以外は休まなかった。どれだけ体調が悪かろうが診察してましたね。子ども心ながら、(医師として)あっぱれだと思っていました」
そんな父親が心血を注いでいた診療所の惨状を目の当たりにして鄭は悲しみがこみ上げてきた。しかし、隣の父親は全く頓着していないようだった。
「早く診療所を開けて、周りで困っている人、怪我人を助けないといけないって。その姿を見て、格好いいと思いましたね」
父親と同じ道を進むことを決めたのはそのときだ。
「それまでは言われた通りに学校に行って……どうやったら勉強しないでやり過ごせるだろうって考えていたんです。そこからちゃんと勉強しないといかんなと」
1996年、川崎医科大学医学部医学科に入学。整形外科を選んだのは父親と同じ土俵に立ちたかったからだ。鄭は中学生から高校生までバスケットボール、大学生時代にラグビーとスポーツに親しんでいた。中学生のときバスケットボールで両足骨折し、父親の治療を受けたこともあった。整形外科は身近な診療科でもあった。
「みんなそうだと思うんですけれど、医学部に入ったときは、6年間、医学を学んで、医者になるんだという軽い感じ」
国家試験はありますけど、講義を受けてふふん、という感じですよと鼻で笑った。その状況が一転するのは、卒業後の2002年、神戸大学医学部附属病院整形外科へ入局してからのことだ。
「ぼくたちの時代は今みたいな研修医制度というのがなくて、卒業して国家試験に通ったら、はい、あんたお医者さんって言われるんです。それで何十年目の先生と同じことをしないといけない。生身の患者さんを目の前にすると、自分が何も知らないことを突きつけられる。これはあかんという風になるんです。実地で経験しながらもう勉強、勉強。(病院に)当直の日なんかは山ほど医学書を持ち込んで、必死で読んでいましたね」
勤務先として神戸大学医学部附属病院を選んだのは、スポーツ医学の世界でその名が知られていたからだ。「そのときは(実地経験を積んで整形外科医の)専門医などの資格を取ったら、父親の診療所を継ぐんだろうなと朧気に考えていました。神戸大学は国立大学だし、ぼくはいわば〝外様〟じゃないですか、冷たくあしらわれるだろうなと思っていました。ところが入ってみると、よく来てくれたって優しく受け入れてもらった。すごい教育をしてくれたんです。これは医局に残る恩(義)があるなと思ったんです」
整形外科専門医の資格を取得するまでの6年間、ほぼ1年ごとに神戸大学医学部附属病院の関連病院を回ることになる。さらに4年目の2006年4月、神戸大学大学院博士課程に入学した。この頃、大学病院ではプロ野球選手の治療を担当したこともある。勝負の世界で生きる彼らと接することで刺激を受けた。しかし、同時に、スポーツドクターの難しさ厳しさも痛感した。
「トップレベルの選手の治療を担当することは大変だと身に染みました」
人工関節手術と出会ったのはそんなときだった。
「関節を長い期間で診たい。それで関節センターという名前をつけました」
関節とは骨と骨が可動的に結合している部分のことだ。2つの骨が接触する部分には緩衝剤のような形で軟骨が入っている。加齢、あるいは運動などの使いすぎによりこの軟骨がすり減り、骨同士がぶつかると痛みが出る。これが膝痛などの関節痛である。
「そもそも江戸時代ぐらいまでは寿命は50歳ぐらいでした。医学の力で寿命が延びていますけれど、軟骨はだいたい50年ぐらいで一区切りになるんです。50代以降の方の半分ぐらい、2人に1人は軟骨がすり減っていると考えてもいい」
軟骨は「自己再生能力のない」組織である。そのため、すり減った軟骨が元に戻ることはない。
「寿命が延びれば延びるほど関節の問題が出て来る。人工関節の手術を受けるのは圧倒的に70代、80代の方が多い。手術を受けたおじいちゃんやおばあちゃんがみんな喜んでくださる。それが嬉しかった」
ある時鄭の頭に同居していた祖母の顔が浮かんできた。
「祖母はずっと動きが悪かったんです。ぼくは中学生ぐらいのときから、祖母が出かけるときは必ず手を添えるという役目をしていたんです。おじいちゃん、おばあちゃんに寄り添ってあげたいなと」
2011年から約2年間、ポーランドの首都ワルシャワにあるカロリーナ・メディカル・センターに留学している。この病院では膝の内視鏡手術を叩き込まれた。その頃には父親の診療所を継ぐという気持ちは薄らいでいた。そして帰国後の2013年、千船病院の整形外科に入った。
「整形外科で関節の先生は大きく、内視鏡の治療が出来る先生、人工関節(手術)が出来る先生の2つに分けられる。内視鏡の治療で手に負えなくなったら人工関節の手術となる。でもこの時期までは内視鏡、ここからは人工関節って、膝の人生を2つに区切ることはできないじゃないですか。一生涯の膝を診るためには両方やれたほうがいい」
千船病院に赴任した後、「人工関節センター」を立ち上げないかと誘われた。
「ぼくは内視鏡手術のスキルも持たせてもらっているので、〝人工〟という名前をあえて付けたくないって言ったんです。人工関節という治療だけでなく、関節を長い期間で診たい。それで関節センターという名前をつけました」
2015年4月、鄭をセンター長とする関節センターが始動した。
取材・文 田崎健太 写真 奥田真也